大陸の動乱期、1492~1776年

この時代は帝国の時代で、欧州の強国が、富や領土、世界的な影響力を得るために互いに争っていました。そのような争いにより、多くの欧州人とアフリカ人が、千年ものあいだ原住民が暮らしていた北米大陸に押し寄せました。

その後起こったのは、原住民の昔からの社会の大きな動乱」でした。この時代、免疫力のない原住民の間に病気が蔓延し、大陸の人口は減少していきました。ですが、そのような悲劇以外に、新たな衝突、新たな自由、新たな奴隷制度、新たな共同生活の形が生まれていくことになります。
 

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スペイン人のニューメキシコ

スペイン人のニューメキシコ

スペイン人の征服者は、1598年、金と銀を求めて、リオグランデの北に移住しました。金と銀の代わりに、彼らは手頃な町を見つけ、そこでは原住民が煉瓦造りの家に暮らし、灌漑農業を行っていました。スペインは、原住民をカトリックに改宗させ、欧州の他の権力を地域から排除するために、サンタフェの植民地を支援することにしました。テワ族、ズニ族、ホピ族などの部族が結束し、「プエブロ共同体」という新しいアイデンティティを確立します。多くの原住民が第二言語としてスペイン語を習得しましたが、スペイン人の労働要求に抵抗し、伝統的な宗教慣習を守るために団結しました。

タオス・プエブロ、1880年

ハウィクーの陶器

ハウィクーの陶器

燭台、塩入れ、スープボウル、伝統的なズニ族のボウル、1680年以前

スペイン人の宣教師に仕事を強制されたプエブロの陶器職人は、伝統的な原材料と技法を使って、燭台やスープボウルなどの欧州様式の品を作りました。


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英国人のサウスカロライナ

英国人のサウスカロライナ

1600年代後期、英国人が、国外向けの単一の換金穀物の生産に特化した、プランテーション制度をサウスカロライナに築きました。植民地の米のプランテーションは、少数の人々に多額の利益をもたらしましたが、多くの強制労働に依存していました。

当初は奴隷にされたインディアンが労働力の一端を担いましたが、後に英国人は自由を奪われたアフリカ人労働者を入国させる方針に転換しました。1700年代初頭までに、サウスカロライナはアフリカ人の住民が多数を占め、欧州人は少数になっていき、西アフリカ人は、独自の知識と信念を持ち込み、アメリカに新しい言語と文化を生み出しました。

「オジーチー川の米栽培」、1867年

米の文化

米の栽培は、西アフリカの稲作知識と、英国の農業実験が結びついたもので、多文化的な発明でした。アフリカ人奴隷の労働により、カロライナ州の経済的成功が保証されました。

稲作の道具として、穀物の殻を取り除く脱穀用の臼と杵が使われ、西アフリカの稲作地域と同様、ほとんどの工程は女性が担っていました。

臼と杵を使う女性、1915年

 

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